vol 6 人生の節目に想う
先日、50歳の節目を迎え、感じる事が多々あった。スタッフや多くの友人達に祝福を受け、もちろん自分も有り難いと感じたし、それよりも皆さんの笑顔に出会えた事の方が重要であった。思い起こせば、10代で東京にあるSHIMA美容室という美容業を継続するにおいての「一生の財産」と出会えた事、30代でCOTAという経営者としての道を示してくれる存在と出会えた事が自分の人生のターニングポイントであったと言えるのではないかと思う。
20代は美容の技術、感性、環境、空気感をデザインしクリエイトした時期、その間にSHIMAという現在の美容室経営の基となる全てをたたきこまれた事は最高の出会いであった。30代は独立して思考錯誤の連続であったし、スタッフの教育をデザインしクリエイトした時期でもあった。35歳前後でCOTAと出会い、今までの技術者だけの集団では将来の夢の実現には「経営」という物が必要不可欠であるという事を教わり、「なんちゃって経営」から「理念を掲げた本格的な経営のスペシャリストを目指す方向に変わっていった」。40代はまさに会社と言う物を本気で捉え、経営そのものをクリエイトした時期であった。50歳になった現在は、会社の永続性を考え、次の世代にバトンタッチできる環境作りをデザインしクリエイトしていきたいと心に強く思う。私は常々、人は何のために働くのだろうと思っていた。私はこの働くという言葉が大好きだ。傍(はた)を楽(らく)にする……はたらく。働く。むしろ、傍楽(はたらく)と書いたほうがどれほど素晴らしいだろう。ところが今だから言えるが、以前の私はこのような思いは全くなかった。自分が裕福になりたいが先行していたのも事実である。だから経営とは名ばかりで、前述した「なんちゃって経営」という経営者のフリをしていたなと回想する。何となく経営をしていたと言えばドンピシャなのかも知れない。でもその何となくを具体的に示して頂いたのがCOTAさんとの出会いからである。その頃から、自分の事よりも、まずはスタッフを精神的、経済的に幸福にする事が経営者としての役目と本気で考えられるようになった。それ以降は私は間違いなく傍を楽にするために働いてきたし、これからもそれは不変である。スタッフを教育し、実績を上げ、利益を出し、労働環境を上げるのに必死だった。決して順風満帆ではなかったが、どうにか自分が思うような実績を上げれるようにはなってきた。そして利益は出し続けられる環境作りを徹底して構築してきた。5年前から利益の処分の過程として、思い切って「決算賞与」を出そうと決心した。スタッフを4月1日に全員集め、またいつもの社長の小言、しかも緊急招集だから、スタッフの顔は一様に動揺していた。「今後も予定以上の利益は、皆さんの頑張りの報酬として、決算賞与(臨時ボーナス)として支給します」私の言葉の意味すら分からない者もたくさんいた。でも何か今まで私を見た目とは違う、私の存在を認めてくれたというか、nambuという会社にいて良かった。私も皆さんと幸せを享受できて、とても嬉しかったと思えた時期であった。とにかく今までとは違う私に敬意を払う目で私を見てくれたような気がした。
スタッフに支えられ、また頼りにされていると実感したのを覚えているし、あの時初めて感じた誇らしさが今の私の原点であり、働く原動力となっている。私は大切な家族、スタッフを守るために働いている。そしてその充実感が私を幸せにしてくれている。大切な人を守るために働くということ以外に、働く意義があるだろうか。
これほど純粋で明確な理由以外に、働く意味があるんだろうか。いつのまにか社会は豊かになりすぎて、働き甲斐だとか、社会貢献だとか、あげく自分探しだとか、結局は守るべき大切な人さえなくしてしまっている。
守るべき人を持たない人の人生など考えたこともない。守るべき人を大切に守ることさえみんなが行えば社会保障もボランティアもいらないのではないかとも思う。私は家族、スタッフのために働いている。身内を幸せにするために。そしてその行為の参画者は、皆等しく私の大切な身内である。身内色の強い同族企業が、競争力がないなどと決して思わない。身内としての結束力こそ、本来強さの原点のはず。私は終身雇用の大家族的組織運営で、そのことを証明してみたい。人は結局一人では生きていけない。
自分と周囲との関わり方が、幸せに大きく影響する生き物である。そしてそれこそが、人間の尊厳だと思う。
守るべき大切な人を見つけることこそ、人生そのもののはずである。